誰がどのタイミングで何を判断するのか?・・・企業価値研究会「論点公開」を読む(2)
(前回のラスト・・・そんなことを考えながらろじゃあは秘密の検討会本番に臨むのでありました(つづく))
そんなこんなで某日、都内某所で、公開論点についての検討会が開かれたと思いなせえ。大学の先生、会計士・弁護士の先生、、正体不明の大学教員。言いたいことを言うという形で結論が出るとは限らん放談会。はてさてどんな意見が出たかというと・・・
「企業価値をどのように考えるのか」 ろじゃあが、一番気になったのは「企業価値を高める買収かどうか」の判断の前提となっている「企業価値」をどのように考えるのかということ。企業価値って言ったって、いろいろ考え方はあるわけで。金銭的に判断するのかどうかという問題もあるし、そもそも買収前の企業価値をどういう基準で判断するのかをある程度明確にしておかないでこの「高めるか高めないか」の判断ができるんだろうか・・・という問題なんだよね。貸借対照表とかを前提に会計上の企業価値を考える場合だって一義的とはいかない場合もあるわけです。資産に計上されていない「価値のあるもの」ってもの存在するわけで。例えば、特許等の知的財産権ってそもそも資産の部に不動産なり債権なりと同じような枠組みでは計上されてないほうが実際のような要素もあるわけです。まあ、原則知的財産権についても潜在的収益可能性を前提に時価評価すべきなんてこという奇特な方もおられるかもしれません。そのほうが税務署は絶対喜ぶと思いますし(^^;)、僕らの下の若い世代の負債負担能力考えたらホントはウエルカムなのかもしれませんけど・・・。
それはともかくとして、現に、
別の記事で書きますけど、会社が債務超過になっているかどうかが問題となった日本コーリン事件のように、裁判所は会計上の債務超過と法的な意味での債務超過は別に判断している事案もあったりするわけです。具体的には数百の特許とそれから見込める収益を勘案すればとても債務超過という状態とは言えないという判断をしているわけです。
今回のニッポン放送の件についても、ラジオの文化的側面とか取引先との長年培ってきたような目に見えない関係とかを企業価値を下落させるというのであれば「どこから下落させるか」をいずれにしろ判断しなきゃいけないわけです。ではそれはどのように評価するのか?この客観的に必ずしも金銭的な評価が一義的に出来るとは限らない要素をどのように紛争の中で明らかにするのかという手続き面の問題を離れて制度設計は出来ないのではないかと思うのでありまする。
「裁判所は企業価値を判定すべきなのか」
結局立証の問題なのか?ということになるのかもしれないのですが、これも今回のような差止め手続きのような十分な時間のない場面と本訴によって争うような場面では裁判所が採用する判断基準というのもそもそも変わってくる場合があるのが本来的ではないでしょうか。そもそも企業価値を判断するために必要な要素は何かも明確ではないわけです。その点、論点公開の基本的な立場としてはどうもすべての要素は何らかの形で数量化・計量化・算定が可能という前提に立っているように思えるのですが、裁判手続きで本当に客観的な形で司法が最終的な判断を下すことが果たして常に可能なのかどうか。ライブドア騒動の仮処分の地裁の立場は算定可能な前提で判断を下していました。それに対して高裁は裁判所によって算定可能かどうかということについては「×」の立場をとって裁判所としては企業価値を高めるかどうかの判断については立ち入らなかったわけです。これはある意味では、司法としての判断可能性についての「謙抑性」の表れと評価できるかも知れません。以前書いた(1)で司法審査との類似性を強引に持ってきたのはこの辺の問題意識があったからでもあります。
ここの部分について、そもそも判断に馴染まない要素もあるんだというところからスタートするのかすべて判断に馴染むと考えるところからスタートするのでは今後想定されるこの問題についてのレフリーをどこが担うべきかという問題に対する解答も自ずから異なってくると思うのです。
今回のような知的財産権的な話をもっと前面に出すべきなのに敢えて出さずに文化とか国民の財産である的な「ベース」で話をする場合はなおさらです。短期間にどれだけ十分な資料をそろえることが可能かどうか・・・そうすると「お墨付き」の問題になるのかもしれません。そうなると「お墨付き」を与えられる主体を見方に引き入れられるかで勝負がつくのが原則の世の中になるかもしれません。要は有能な弁護士や会計士などの専門家・事務所に資金をたくさん投入できるところで、それに対して経営に当然必要であると内部統制の枠組みでもシステマイズされているような主体が相対的に高い勝率を手に入れることが出来るわけです。それでいいんなら別にいいんですけど、ホリエモンを批判されてた方々は、(彼らが言うところの)この「金で何でも片がつくって文化」ってうけいれちゃうんでしょうか?
「専門家は「いつ」の企業価値をどのように判断するのか」
では、彼ら専門家はどの程度「企業価値」について共通のベースで話をしているのでしょう?DCF的に評価する手法がすべてに通用するのか。目に見えないそして現在キャッシュフローを生んでいない典型的な財産以外の無体財産を「目に見えないから、計上されていないから、キャッシュフローを生んでいないから」一律にゼロ査定に近い評価をベースにしてしまったら、同業か異業かに関わらず、それを生かす伝手と資金を持ってる主体は常に企業価値をあげる「社会的に評価されるべき」主体になるでしょうし、「目に見えないが、現在キャッシュを生んでいないとしても財産的価値はある」という前提で常に高い評価を行うことをベースにするならどんなに社会的に有能な主体が出てきても「企業価値」のスタート水準が不明確で常に高値の抗弁が出てくることで企業価値を下げるという主張を濫用的に防衛側に付与することにもなりかねないでしょう。 余談ですが、ろじゃあには現在のプロ野球は実はこの前者と後者の隘路に陥っているような気がしてなりません。某氏的な「バランスシート・プロ野球経営論」(^^;)はもとより経営学的には正しいのかも知れませんが、そのアウトプットとしての「あるべき『調和のとれた日本のプロ野球』」が面白いかどうかは別問題だと思います。債務超過と主張する経営者はこのビジネスモデルの中核をなす(?)無体財産権的側面を評価することとキャッシュフローを生ませる事のプロとはいいがたいかもしれないところが問題なのであり、他方無体財産権的性格を過大評価する経営者の方々はその生かし方について顧客満足度やマーケティングを度外視している可能性があるかもしれない点が問題なのでしょう。
本線に戻りましょう(^^;)。
例えば、特許関係で言うとクロスライセンスの会計的、税務的な枠組みの問題ってろじゃあは門外漢だから正直よくわかりません。ただクロスライセンスはお互いに打ち消しあってる分だけ、要は相殺の延長上で判断しようと思えば「チャラかどうか」で判断基準は相対的に判りやすく構築することが可能かもしれません。でも、「チャラ」ではない「僕持ってる」あるいは「僕持ってない」という無体財産権に対する企業の評価を客観的にどのように誰が評価するのか。そして裁判所はそれを自らの職務として判断しなければならない枠組みにするのか謙抑的に判断を回避すべき枠組みにするのか。結構重要だと思いません?
じゃあ誰がどうやって判断すべきなのか・・・制度設計の問題でしょうが、放談会で某先生が指摘し、ろじゃあもそうだなあと思う、「シロクロをつける」手続きと制度の問題として検討しなければならないと思うんですよね・・・ってところで長くなったから記事を分けます。あ~疲れた、休憩じゃわい・・・
銀河の歴史がまた1ページ・・・(^^;)
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Comments
ろじゃあさん、トラックバックありがとうございます。
この「企業価値」問題、やはり研究会などで議論されているんですね。私はこの「企業価値」問題が司法の場で議論されるときには、先例となることを嫌って、もっぱら「手続き的審理」に終始するんではないかな、と思ってしまいます。このろじゃあさんの記事をもとに、私もまた(つづき)を書きたくなりました。今後ともよろしくお願いします。
Posted by: toshi | May 10, 2005 10:51 PM