抱っこしてるつもりだったけど抱っこされてたのかもしれない・・・深いなあ、たまひよのCM
たまごクラブ、ひよこクラブってえと結構「あるよねえ、それ」ってほほえましい型のCMが多いって印象だったんだけど、今回のたまひよのCM、親になった人間はよくわかるし、よくわかったほうがいいCMだとおもいます。
あかちゃんに添い寝してるお母さんが
私、抱っこしてるつもりだったけど抱っこされてたのかもしれない・・・とポツリとつぶやくんですね。それを聞いたおとうちゃんが「えっ?」って結構間の抜けた顔でかえす画があってたまひよのコールが・・・
この子供に対して何かしてあげてるってのが曲者でそれが几帳面で優しい人の中で「子供に何かしてあげなきゃいけない」って変換されてしまって、「子供になにかしてあげられない自分」に忸怩たる思いがつのるとお母さんが追い詰められていくこともあったりしてね。
そんなとき、この発想の転換ってすごく大事だったりするわけです。
何かしてあげるのではなく、何かしてもらってたんだという発想・・・
そうするとね・・・んじゃあ、私はこんなに世話になってるあかちゃんに何ができるんだろう・・・とかっていい方向で発想が回り始める可能性がでてくるんですよ。
これは何も赤ちゃんとお母さんの関係だけではないんですな・・・
年老いた親たちに何かしてあげられないかと空回りしてしまうとなかなか自分の真意は伝わらなかったりします。かえって年老いた親に気を使わせちゃったりして・・・そして、「何かしてあげなきゃ」→「なんで何もできないんだ」→「何で私はこんなに何もできないんだろう」→・・・・おんなじような悪循環。
夫婦だって、恋人だって一緒かもしれません。
私がいなきゃこの人はやっていけない→何かしてあげなきゃ、計画たてなきゃ→何で何もできないんだろう→何でわかってくれないんだろう→なんで何もできない私をわかってくれないんだろう、でも何かやらなきゃ→できないよう・・・
実は職場でも、こんなことは起こることがありますよ。
俺がこの分野は何とかしないと会社は大変なことになる→何で何もできないんだ→何で誰も協力してくれないんだ→何で誰もわかってくれないんだ→何でじゃまするんだ→俺の思うとおりにやらせてくれたらどんなにうまくやれるだろうに→こんな会社がいけないんだ→俺はもっと何とかできるところで・・・なんてね。
いずれの場合も、自分が何かをやってあげるという視線を転換して自分は助けられてる、ありがたいなあ・・・ってところを認識できるかどうかで同じ「何かしてあげる」が「何ができるだろう」に微妙に変わるんですよね。
前者は背伸びしがちで自滅する可能性が高く、後者はできる範囲で対応ということになりやすい・・・
これだけで、実は気分が楽になる方がたくさん世の中にはいるはずなんですがねえ・・・・
こんなことをつらつらと思ってしまったたまひよのCM。
深いじゃないか・・・ってろじゃあぐらいかなあ、こんなとこまで広げて考えるの。
ちゅうか、そのあと東証のことまでこの範疇で考えてしまったろじゃあというのは「何かしてあげる」視線の権化なのかもしれないなあなどとちょっと自己嫌悪に陥りそうだったのでその先の思考は停止させますた(^^;)。
ホントつまんないはなしなんだけど、素朴な疑問。
東証さんが度重なるシステム障害でシステム再構築しないことによる潜在的な損害賠償義務のリスクにもさらされながら敢えてソフトランディングしてるように見えるのは・・・短期間でシステム投資するだけの先立つものが十分じゃないからなんですか?もしまかり間違ってそんな現実があるのだとしたら、いままで添い寝をしてたつもりの証券会社のかたがたは、添い寝してもらってたことに気がついて・・・・何とかしてあげた方がいいんじゃないかと思うんですけど。逆に今まで添い寝してあげてたつもりだった東証さんは、添い寝してもらってたことに気づいて証券会社さんたちのために何ができるかって・・・こっちはそのままストレートだとまずいか(^^;)。やれやれ。
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