世界は悲しみに溢れつつも慈しみも溢れているはずなのに・・・千手観音とKOMATSUクン
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世界から悲しみがなくなることは残念ながらないだろうことはわかっていながら、また今日も世界には悲しみが溢れつつあるように思われる。
ここ一か月、さらにその悲しみは溢れつつあるのではないかと持ってしまう夜が続いている。
そんな中でひとは何かにすがりたくなることもある。
それが向こうからやってきてくれる場合もあるし、こちらから求めなければならない場合もある。
ろじゃあはここ数日でそんな慈しみの表れかな・・・と思ったもの、ふたつに接した。
ひとつは千手観音のパフォーマンス。前者についてはろじゃあが改めてとやかく言うことはないだろう。
もうひとつはKOMATSUくんの路上パフォーマンスだ。
直接ではなく、

画面を通してですら込み上げてくるものが抑えられなかった。
なんなのだこの慈しみにあふれた舞は。
現物を直に目にしたらろじゃあはおそらくその場で泣き伏してしまうのではないだろうか。
これについては理屈は無力だ。
理屈の問題であれば涙自体が制御できるはずであるし。
後者のこまつ君のはなし。
子供たちから請われてDVDを予約していた。
現物をみて子供たちと鑑賞していたのだが。
途中まではその芸達者な様に目を奪われていた。
しかし、一曲だけ違った視点で接せざるをなくなってしまったろじゃあであった。
その曲だけは、右手で操るトランペットの音色が心の底から絞り出すような何かを画面に溢れさせていた。
この曲のときだけは彼は別人であったように思う。
そしてそこから伝わってきたものはなんだったのだろうか・・・哀愁というたぐいのものであるようにろじゃあには思われたのだが、DVDの最後でエンドロールが流れる間も繰り返されたその曲の演奏・・・そこで思い当たったのが
慈しみだった。
子供の前でなぜ涙が流れてきて止まらないのかを説明できなかったろじゃあだった。
テレビのお笑い番組で彼が示すものの根底に何が流れているのかを知りたい気がした。
ちなみに曲の名前は
かえりみちである。
この曲の演奏に接するだけでもこのDVDを購入する意味があるように思われる。
イメージを頭に結ぶ能力というのは生来のものなのだろうか。
経験により増えるものなのか。
経験により深まるものなのか。
ここ数ヶ月間で起こった、さらに起こりつつある、そして起こるであろういろいろな出来事において、本来は世の中に溢れていなければならないはずの慈しみが必要になる人がますます増えることになるのではないか。
そしてその慈しみが実は本気で探すとなかなか探しにくい状況にあるのもまた否定しがたい事実なのではないか。
そんなことをろじゃあはこの一ヶ月間、改めて考え続けている。
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