アトムが泣く、プルートウが哭く・・・「水じゃなくてもっとさびしい粒」
ビッグコミックオリジナルは相変わらずのろじゃあのお気に入りなのだが、しばらく立ち読みがおおかったのだが(苦笑)、「Dr.コトー診療所」(山田貴敏)も始まって、最近また毎号購入して読むようにしているのだな、これが。
そもそも「あぶさん」、「風の大地」という長期連載作品も大きなヤマを迎えており、まあしょうがないな(^^;)。
ところでだ。
『PLUTO』(プルートウ)(浦沢直樹作、手塚治虫原作)が佳境を迎えている。
この作品は、手塚先生の作品世界を浦沢さんなりに再構成しているところがあり、その根底に走らせている世界観もそれなりに興味深く読んでいたのだが、やはり鉄腕アトムの作品であるのでどのようにアトムの自我との関係を取り扱うのかとおもっていたのだが、「殺されてしまった」ゲジヒト刑事の憎悪という媒介項をうまく設定で用いることで、憎悪というものとロボットという存在を関係づけ、なおかつそれを否定するという方向感を打ち出すようになっている。
今週号は、「生きたかったロボット」の想いをアトムが代弁し、まさにPLUTOに対して、憎悪という形で
怒りをぶつけようとしているヤマ場である。
ろじゃあが印象的だったのは、最後の方でアトムの目からもそしてプルートウの目からも「涙」が溢れている場面であった。
ゲジヒトはロボットながら「ヒト」に近づいた存在としてアトムの頭の中で記憶として生きている。
そのゲジヒトの憎悪に後押しされていたアトムであるがPLUTOにとどめを刺そうとするまさにその瞬間に同じゲジヒトの憎悪は何も生まないという想いによりそれを押しとどめることになる。
その営為がアトムの中に、そしてPLUTOの中に「感情」を生み出す形になっている。
タイトルに
水じゃなくてもっとさびしい粒と書いたが、これは「涼宮ハルヒの憂鬱」に出てくる長門有希のキャラソング「雪、無音、窓辺にて」の中に出てくる一節である。
→たとえば、こちらを参照されたい→http://jp.youtube.com/watch?v=R8kdeBQ-5T4
「彼女」も「ヒト」ではなく「対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース」であるので本来的な意味での「涙」が流れるはずはないのだが、感情を持つに至るにつれ涙というものが関係してくる・・・ということなのだろうなと勝手にろじゃあは解釈しているのだが(苦笑)、まさにアトムとプルートウが「ヒト」に近い存在ゆえに涙の元になる「想い」に接することになっているのだな。
この「ヒト」の形をしたロボットが自我と涙の元の感情をどう位置づけるのかというのはヒトが生きていく上に自分自身の存在と感情と自我をコントロールしなければならないことを想起させる重要な視点である。
やはり読んでしまうよなあ。
この涙と「ヒト」の形をした者の関係というのは、「ブレードランナー」においてルトガー・ハウザーが演じたレプリカントにおいても象徴的に扱われていたものなんで、ろじゃあの世代からすると昔っから生きていく上でいろいろな視点から考えてきたお話なんだよね。
ということで、ヤマ場です、「PLUTO」。
慟哭するPLUTOとアトムの今後は如何に・・・ってところですな。


Comments
単行本でしか読んでおりませんので、次の単行本を楽しみにしております。
何度、本屋で、立ち読みの衝動に駆られたことか・・・・。
Posted by: ひまてん | January 09, 2009 at 10:29 AM